第100話   たかが釣されど釣   平成16年05月08日  

庄内の釣は江戸時代の中頃の雑魚釣に始まり、クロダイ、赤鯛を狙うようになり幕末から明治、大正、昭和にかけ幾多の変遷を経て庄内竿の改良と共に変化し続けてきた。

庄内の釣は1800年頃に至るまでの釣は、釣れる物は何でも釣ってやろうと云ういわゆる雑魚の釣でしかなかったが1700年代の末に二人の名人が現れ一変した。大物から小物に至るまで、其の時釣れる物は何でも釣ったと云う釣の名人生田権太の登場により、釣師の多くが汐を見る術を学んだ。次に10年ほど遅れて、大物しか狙わぬ神尾文吉と言う名人が現れた。彼の餌は鮑(アワビ)と針先にマエを付けると云う徹底した大物一辺倒の釣で、実績を上げた釣師であった。其の釣は昼夜をたがわず釣れるまでは帰らないと云う徹底した釣であったと云うから凄かった。そんな大物一辺倒の釣に刺激を受けて1800年代の釣が始まったのである。

其の頃の庄内藩の財政改革を行った名君酒井忠徳公(タダアリ=1755~1812)が盛んに町民から武士に対して釣りを奨励した。とかく奢侈に流れがちな武士の心身の鍛錬を促すために、遊びの釣が武芸の一つとなり「釣道」とされた時代であったのである。武芸の一端となれば、おのずから敵の大将は大型の黒鯛、赤鯛が釣の対象になる。そこで「勝負」と云う名文句が生まれたと想像する事が容易に出来る。

釣竿は当時の弱い絹糸で大型の魚を釣り上げる為の竿へと変化して行った。1800年代の初頭、陶山運平が大型の黒鯛、赤鯛を釣るための竿、細身で長く強靭な庄内竿を完成した時期と一致する。1800年以前の竿は小物を対象にした竿(遊びの釣)であったが、次第に三間から四間と云う長竿の延べ竿へと変わっていった。それは今では考えられないほどの弱い糸を使っていたから、其の弱点を幾らかでも竿の弾力を使い克服するしかなかったのである。それが運平の庄内竿であった。

特に大型の魚を庄内竿で扱う術も変化した。完全フカセで道糸を23尋以上余分にとり、汐を読んで餌を自然に流すと云う庄内独特の釣り方=完全フカセが完成した。魚の引きで海中に半分ほど引き込まれた竿を、足場をしっかりと確認して腰を低く構え手首で竿を立てると云うものであった。長竿と短い竿とでは扱い方が異なるものの関東のヘラ竿の竿さばきとは大分違っていた。

殿様の釣の奨励と竿と釣りの技術の変化で大型の魚を釣る事が可能になり、其処で始めて本格的な「武士の釣」の時代の到来となったものと考えられる。日本最古の魚拓「錦糸堀の鮒」で有名な殿様酒井忠発公(タダアキ) 嘉永3(1850)8月の温海の湯治では3週間の湯治で内7日間を朝から晩まで釣に費やしている。この頃になると釣り場の漁村に餌の供出、釣り岩の管理を云い付けているが竿の供出を云い付けては居ない。1700年代の殿様の釣ではお供の分も含めて150本からの釣り竿の供出を命じていた。この頃になると武士達は各々マイロッドを持参したと考えられている。百数十名のお供の者が皆釣りをしていたのであるからさぞかし壮観な物であったろう。

武士の釣の伝統は幾多の釣の名人、名竿師を輩出し、明治、大正、昭和と庶民に普及し今日まで何とか引き継がれて来た。

昔からの釣と釣竿は、庄内という狭い其の地域と其の時代にマッチして発展してきた。同様に日本各地の残っていた独特の釣り方も残る物と消滅してきた。昨今は中央の釣具メーカーが作った釣具、竿のみならず配合撒餌が全国何処に住んでいても手に入るようになって来た。それによって日本全国何処へ行っても同じような釣り方に統一化されつつあるようである。非常に残念であるが、昭和3040年代まで残っていた。その土地にあった土着の独特の釣竿、釣具、釣り方が次第に姿を消して来ている。紀州釣りのように、ある地方の釣り方に実績が出ると云えば、形が多少変化しながらもあっという間に全国展開する事になってしまった。

そんな時代になっても、釣り人は減るどころか益々増加している。幾つになっても釣は止められそうにもない。年齢を加える度に年にあった釣りをこれからもやって行ければ幸せだと思う。